明日をみつける旅ブログ

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何も取り柄がないけど、できることを見つけたい。

アイデンティティがグラグラ【メルボルン】の街が教えてくれたこと

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こんにちは。

いきなり変なタイトルですみません。

みなさん、自分のアイデンティティがどんなものかって考えたことありますか?

 

アイデンティティとは自己同一性、自我同一性などと訳されるそうです。

つまり、自分とは何か?どんな人間なのか?という意識です。

 

例えば、私は日本人だ。

そう思うこともひとつのアイデンティティです。

 

でも日本で暮らしている間に、なかなか自分が日本人だと自覚する場面はないように思います。

少なくとも私は強く自覚したことはありませんでした。

むしろ、海外旅行が好きだし、日本人らしい日本人じゃないんじゃないかなんて思っていました。

 

しかし、メルボルンで過ごしている間に、私はこの自分って何者?と初めて考え始めることになったのです。

 

今回は、メルボルンで私が「自分とはどんな人間か」考えた末に、アイデンティティがグラグラと揺れてしまったというお話です。

文章ばかり長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。

 

 

 

 

 

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移民の街で出会った自分

オーストラリア、メルボルンはたくさんの移民が集まっている都市です。

19世紀に建てられたヨーロッパ風の建物が残り、イタリア人の持ちこんだコーヒー文化が根付いています。

アジアからの移民や留学生もとても多いです。

 

 

さて、日本人の特徴を挙げるとすれば、勤勉、真面目、空気を読む、暗黙の了解、和を乱す意見は慎む、あまり主張をしない、誰かの迷惑にならないように行動する、、、といったところでしょうか。

でもこれは日本人だからといってすべて当てはまるわけではなく、今の時代ステレオタイプや固定概念ともとられかねない意見です。

 

自分に当てはめてみても、勤勉といえるほど真面目に働いてもいないし、、としっくり来ないこともたくさんあります。

 

空気を読んだり、和を重んじることを重視するという感覚は海外では通用しないとよく言われますよね。

それについては私も知っていたので、メルボルンで海外生活する時には肝に銘じて臨機応変に向かっていくつもりでいたし、実際に私は自分の文化を破って彼らのようなふるまいができると思っていました。

 

だから住む前の私は、そんな自分の考えがグラグラと揺らぐなんて思ってもいなかったのです。

 

 

 

 

 

メルボルンに行った当初は、旅行と同じで見るものや出会う人が新鮮に映りました。

しかしそれは、学校に通ったり仕事をしたり、だんだんと日常生活が成り立つようになると、だんだんと変わってきます。

様々な人との出会いの中で生まれる違いがストレスにつながっていくようになりました。

 

 

語学学校では、欠席や遅刻が多い決して真面目とはいえない生徒が、私よりずっと流暢な英語を話し、友達も多く、成績も良かったり。

 

仕事中は、暇な時間も何かできることはないかと探しながらせかせかと働く日本人に対して、おしゃべりしたり携帯を見たり、ゆったりと働くお店のスタッフ。

 

シェアハウスでは、生活音や共有設備の使い方といった生活する上でのルールの認識の違い、その解決法。

 

語学学校の友達や、職場、お客さん、シェアハウスメンバー、日本では出会えなかった様々な国の様々なタイプの人との関わりの中で、たくさんの理解できないことや自分では変えられないことに直面しました。

イライラやもやもやばかりが募る毎日でした。

 

 

でも、「どうして理解できないのか」とつき詰めて行くと私はやっぱり自分の中のルールだけで縛られて生きている部分が多いと気付くんです。

 

国によって文化や感覚の違いがあるのは理解しているつもりです。

ましてここは日本ではないし、これが文化や価値観の違いだ

私はこのスタイルに慣れていかなければいけないんだ。

自分が合わせていかないとと思いました。

  

 

真面目で勤勉な態度が絶対的に評価されるわけじゃない。

少しくらい手を抜いても結果にはつながる。

必死にやってパフォーマンスが悪くなるくらいなら、少し肩の力を抜いてみよう。

言いたいことは雰囲気では伝わらないからしっかり口で伝えよう。

 

 

そう考え行動するようにすると、まわりの人の動き方や考え方も少しは理解できるようになりました。

同時に自分の気持ちも少し楽になった気がしました。

 

 

 

 

少しだけ。

 

 

 

それでも変えられなかったもの

 

正直に言うと、実際はそれでも悩み続けていました。

 

やっぱりずっと染みついてきた習慣はなかなか抜けてくれません。

 

仕事中は、大丈夫だよと言われても何かできることはないかと率先して動いてしまうし、言いたいことを口で伝えるようにしてみても、ためらったり強く言えなくて自己嫌悪。

相手がしてほしいだろうなということを先回りしてやってしまうけど、相手は何も気づかなくてガッカリしたり。

 

裏目に出るというか、努力して自分を変えてやってみたことでさらに考え込んでしまったり、とにかくなぜかモヤモヤはとまらなかったです。

 

頭ではわかっている、私の意見がずれているからまわりと同じようにできないんだ。

だから早く適応しなくちゃって。

 

もしかしたら特に私は自分で思うよりもこだわりが強い人間なのかもしれない。

私はこんなに苦労しているのに、どうして周りはこんなに楽しそうに生きられるんだろう。

私は本当に駄目な人間だなぁ。情けない。

 

今考えたら少し考えすぎだとも思えるのですが、その時はすごく自分がマイナスな気持ちで満たされて抜け出せない状況にいた気がします。

 

 

海外生活に適応できる自分になりたかったのに、彼らの生活を理解しきれない。

自分を変えようと努力すればするほど、私はまぎれもなく日本人として、日本の社会に属してきた人間なんだなと思わずにはいられませんでした。

自分がこれまで信じて生きてきたこと、それを変えたいともがく自分と、それすらもダメだと否定する自分。

私は初めての海外生活をしたメルボルンで、自分はどういう人間なのか、どうしたらいいのか、どうしたいのかがすっかりわからなくなっていました。

 

自分がこれまで持っていた、自分はこういう人間だというアイデンティティの自覚と同時に、それがグラグラと揺れ始めた瞬間でした。

 

 

 

悩む毎日にあったのは、いつもと同じメルボルンの日常

 

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しかし、そんな状況に新しい気付きをくれたのも、メルボルンの環境でした。

 

ある日、仕事帰りにトラムにぼーっとしながら乗っていると、見慣れていたはずの環境にまたふと違和感を感じます。

 

4言語くらいの違う声が同時に聞こえてきたのです。

 

少し周りを見渡すとオーストラリア人、中国人、インド系の人、南米系の人、そして日本人の私が同じトラムの車内にいて同じ方向に向かっていました。

それぞれが、電話をしたり、自分の国の言葉でおしゃべりしていたり、携帯を見ていたりなんてことない日常を過ごしています。

メルボルンでは全く珍しい光景ではないので、誰も何も気にしていません。

 

そして気付いたのは、同じように誰かに不思議がられるわけでもなく、その日常の一部になっている私自身でした。

 

 

オーストラリアは移民が多く暮らす国です。

メルボルンの街には、アジア、ヨーロッパ、南米といった様々な国をルーツに持つ人々であふれ、聞こえてくる言葉も容姿も全く統一性がありません。

それはすでに上記した通りです。

 

それに、日本人ほどはっきりと○○人だと分けられない人も多くいます。

ルーツに別の国の血が流れていたり、両親が別の国から移り住んできたから欧米系の顔ではないけど、メルボルンで育ったから英語がペラペラなんて人もいます。

 

ここには本当に様々なルーツを持つ人がいて、この人は○○人だからきっとこうするだろうとか、○○出身だから理解できない、なんて考えていたら埒が明かないほど一括りにはできないんです。

もちろん見た目だけで判断することもできません。

 

だからたぶん、国とか文化といった括りでは測れず、いろいろなものが混ざり合って出来上がった個々の人格であると考える方がしっくりきます。

 

街にはそんな移民が運んだ多国籍のレストランがあふれ、文化を理解できるようなお祭りがたくさん開催され、現地に住む人々もそれを楽しみます。

 

ここでは本当にいろいろな要素が混ざり合って、メルボルンという都市ができているんだなとトラムの中で急に合点がいったのです。

 

そしてここに住むオーストラリア人は、そんな様々な国の人々や文化を受け入れ、自分たちの中に落とし込んでいるようでした。

 

 

 

ここに住む人は、様々なアイデンティティを持ちながら、お互いに尊重しあって生きている。

周りが楽しそうに見えていたのは、自文化や他国の文化のどこに合わせるかではなく、その接触の中で、個々人として変わっていくありのままの自分の姿で生活しているからなんじゃないか。

それでも受け入れてくれる環境がここにあるから。

 

ふとそう思えました。

 

 

 

 

 

 

 

さて、私はその中に入って、いったい何に合わせようともがいていたのでしょうか?

 

 

 

見つけたのは私自身だった

 

他の人みたいに手を抜いてゆったり仕事をするのもいいけど、やっぱりある程度の緊張感でメリハリをつけたい。

言いづらいことを無理して伝えてストレスを感じたとしても、それは私がもともと不得意な部分なんだから仕方ない。

 

白いご飯に納豆が食べたいし、お味噌汁や緑茶も常備したいです。

たとえ他の国にいても日本人、もとい私らしさが抜けないのも私でした。

 

そんな自分を変えなくてはともがいて、変えられなくて落ちこんで否定していたけれど。

 

でも変える必要はなかった。

合わせるべき基準なんてそもそもなくて、それぞれが自分らしく生きていけばいいだけだった。

新しいことを取り入れて常に変化していくアイデンティティでいい。

単純だけど、固定された型にはまろうとするのではなく、私は私という考えでいいんだと初めて感じた瞬間でした。

 

きっともともとの私は、簡単に揺らいでしまうほどの自己理解しか持ち合わせていなかったのだと思います。

 

だからもっと自分らしさを見つけていきたい。

メルボルンの成り立ちが、私のこれまでの生きづらさを解消するヒントをくれたような気がしました。

 

 

今はそれに気づき、無理して何かを抑えたり挑戦する必要はないなと感じています。

もちろん新しいことに挑戦することは大切なことだし、自らを貫き通すことが絶対的に正しいとも思っていません。

郷に入っては郷に従えとは良くいったもので、それによって気付く新しい自分もあります。

その土地の習慣や文化に習った行動を意識するのも新参者の考えとして重要だと思います。

 

 

 

私は今も、自分とは何か、何をしたいのかの答えがはっきりと出せていません。

実はこれがこのブログのサブテーマにもなっています。

 

でも今回わかったことは、いつまでも真面目さや保守的な部分が抜けない自分と、少なくとも一般的に日本文化といわれる環境の中で生まれ育ってきたんだなという自覚でした。

 

だからこれからも私は葛藤を続けるんだと思います

 

メルボルンの人たちがたくさんの文化に向き合い、取り入れ、自分の中に落としこんで生活しているように、私も様々な出会いの中で起こる葛藤を通じて変化する自分を受け入れていきたいと思います。

 

 

 

終わりに

 

長くなりましたが、、ここまで見てくださった方がいる…でしょうか?(笑)

今まで自分の気持ちを表に出していく作業をしてこなかったので、すごく頭を使う時間でした。

でも書くことで考えがまとまっていくようで、楽しい作業でもありますね。

また感じたことを少しずつ書いていきたいと思います。

 

 

つたない文章を最後まで見てくださってありがとうございました。

それでは。

 

 

 

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